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春は動いています

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これは少し前の桜です。今はもう小さな葉が出はじめて、ひっきりなしにはらはらと舞っています。
花びらのあとは、赤いガクが落ちるので、これも掃かなければなりません。
花びらって相当遠くまで飛んでおります。散った範囲をすべてというわけには行きませんが、向こう三軒プラス一軒くらいまで竹箒とちり取りを持って歩くと、すっかり体があったまります。
これも桜の効用。大きな花束の下を掃除する幸せ。ありがたや。

卒業式、始業式、入学式が終わりました。ホッとしたのもつかの間、親には書類をたくさん書く宿題が・・・。
新しい学校、新しいクラス、新しい友達の中で、緊張と不安でいっぱいの子どもたちを見守るのはけっこうこちらもハラハラして不安なのですが、なるべくそういう顔は見せないようにしなければ。
毎年どこかの学年で、「今年の子は落ち着きがない」とか「子供っぽい」とか言われます。
十把一からげには賛成できないけれど、それはそれで当たっているところもありますね。
時々感じるのは・・・今の子どもたちは器用なようで不器用。口ばっかり強いようで中身はとても臆病。
まあ、子どものころから軟弱の代表みたいな自分が言うのもなんですが、最近は言葉に対する感覚(話すのも書くのも)が浅くなっているのかなと。
うまく伝えられないし、受け取る側もうまく受け取れない。それだけでなく、相手のせいだと思ってしまう。もとを正せばそういう単純なトラブルが多いようです。

赤ちゃんが寝返りを打って腹ばいになってハイハイしてやっと伝い歩きをするように、言葉を使うことにもあるべき順序があるような気がします。
私のように、子どものころからずっと書くことが日課だったような人間でさえ、ここ数年ペンでなくキーボードになり、手紙でなくメールで済ませることが格段に増えると、時々、何かの折に、自分の日本語力が著しく低下していることに気づいて、愕然とすることがあります(そういうことある人、手を挙げてー)。
培うことには長い年月がかかっても、失うのはあっという間なのかも知れません。
自分の中の微妙な能力について、もう取り返しがつかないんじゃないか?と、つい最近も感じて、ぞーっとしたこともあります。それほど人間って順応しやすいんですね。良くも悪くも。。。

・・・小学校から英語を必須にするよりも、やっぱり大事なのは国語じゃないかなと思ってしまいます。大切なのは喋る技術じゃなくて、中身じゃないかと。
きっとそこには、今おろそかになっている家庭のチカラというものももっともっと大事になってくるのでしょう。小さい頃から、豊かな情緒と日本語を注いで育てなければ・・・。
メールに一言『死ね』なんて書いて送れる神経は悲し過ぎます。でも、自分が投げたひどい言葉に自分で傷つく痛さまで麻痺するのには、そんなに長い時間はかからない気がします。
そして、自分の子どもがそんなことをしないと言い切れる勇気は私にはありません。
自分が先ではなくとも、「相手がやったから」と言い訳するかも知れません。
もしかしたら、大人の私の方が先に麻痺しつつあるかも・・・。気づかないところで・・・。

学校という集団の中でちょっとづつ大人になるにつれ、どうも楽しいことよりも痛いこと、それも時々下ろし金みたいな金属の尖ったものでこすられるような不自然な痛みを感じることが、案外多いんじゃないかなと最近子どもや子どもの友達を見ていて思うのですが、これって昔からこうだったのかしら。
時代時代で空気は違うし、痛みは生きてる証拠だから、それでいいのかも知れないけど。
でもどこか安易すぎる気がして。
いや、心の中は安易ではないはずなのに、表現がついていってないところが危ういのです。
せめて、棘の連鎖だけはいやだなあ。

モヤモヤっとしながら桜の散るのを見ていたら、ん、と、一つ思いついたことがありました。
桜は新しい葉っぱを出して次へ次へと変ってゆくのに、自分はここしばらくなまけモードだった。何かを何かの言い訳にして。
自分にもできることを、ちょっとづつ広げて行かなくちゃ、と思っています。
by rikakokoro | 2006-04-09 02:03 | 日々 | Comments(0)

長井理佳。童話作家で作詞家。仕事歴は以下のプロフィールのページにあります。


by RIkaNagai
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