のこるもの


年老いてくると、その人の性格で一番顕著なところがはっきりしてくるように思う。
例えば、亡くなった祖父がそうだった。
とてもきまじめできちょうめんだった祖父は、何にでも決めた通りにとりくんだ。
晩年は痛風持ちだったが、八十を過ぎてからも自ら湯河原の温泉病院に入って、治そうと日々努力した人だった。
人には決して弱音をはかず、文句を言わない、寡黙で律義な明治の男であった。
何種類もの薬も、朝はこれとこれ、夜はこれとこれ、としっかり把握して、時間を決めて、自分できちんと飲んでいた。
だが、ある時、その薬の種類と数と順番が少し変った。
すると、その頃だいぶ弱りはじめていた祖父には、そのことがわからなくなった。そして、私に数時間置きにそのことを確かめた。
「これとこれを朝飲むはずだったんだが、どうも違うらしいんだ。それがどうしてかどうしてもわからなくてね」
何度説明しても、今まで決まっていたことが急に変ったのが、祖父には理解できないのだった。数年前なら柔軟に対応していただろうことが、その時のおじいちゃんにはできなくなっていた。


このところ、父が徐々に年老いている。
記憶が弱くなってきて、特に晩酌をすると、それがひどくなる。
最近のことは忘れてしまって、昔話をするのはお年よりの常だと思うが、その「昔度」が、だんだんと時代をさかのぼっているようだ。
自分の子どものころの年中行事と、今が時々混同したりする。
そして、父の中で何が顕著になっているかというと、それは一重に家族の無事の確認だ。
昔から、誰かの帰りが遅いと、怒ることはないけれど気にかけている父であった。
今は、母や私、三人の孫の無事確認に、日々心を砕いている。
しかし、「今日は塾で遅いよ」とか「友だちと食事してくるんだよ」という話を何度聞いても忘れてしまうので、夕食時には、数分置きに質問されることになる。
法律の仕事からも離れ、また、昔の病気の後遺症で、思うように出歩けない父には、今の最大の関心事は家族の無事なのだ。
父に最後まで残るものは、人としての情、優しさだと思う。
しかし、聡明だった父が老いてゆき、同じ質問を繰り返されることに苛立つ、優しくない娘がここにいる。


昨日、地域の演奏会に出かけた。会場は混んでいて、私の隣には老婦人が座っていて、音楽に合わせてゆるやかに体が揺れていた。
とてもきれいなアンサンブルを聴いている時、彼女は急に咳き込みはじめた。
一生懸命止めようとするが止まらない。バッグからお茶を出して飲んでいるが、すぐにまた咳き込んでしまう。ハンカチを口に当てて、とても苦しそうだ。喉がぜいぜいする音まで聞こえるようだった。
のどあめでも持っていたらすぐに差し出すのに、と思いながら何もできず座っていたが、やがて少し楽になったようで、彼女はふたたび舞台に集中した。ほっとした。
その演奏がすんだところで、彼女は席を立って行った。
そのまた隣には、ビデオカメラを持った母と子が座っていた。老婦人が出ていくと、女性は舌うちをして、「ああいなくなってよかった。うるさいったらりゃしない!ねえ!」と小学生くらいの娘に話しかけた。
なんとも言えない気持ちになって、そのとき、なぜか父のことを思い出した。


タクシーを降りる時、「ありがとうございました」と言ってしまう。
しまう、というのも変か。でも、これも父のやりかたを見て覚えたことだ。


学生の頃、とても嫌な先輩から電話をもらって、横柄な応対をしたことがある。
それを黙って横で聞いていた父が、切ったあとで言った。
「今のはとても感じが悪かったね」
「だって、いやなんだもん」
「理由はどうあれ、ああいうのはよくない」
それだけしか言われなかった。


中学生の時、担任にいじめられたことがある。大人しいはっきりしない子だったから、気の強い体育会系の女教師には恰好の標的だったかも知れない。
泣いて帰って、父がその話を聞いて、手紙をくれた(面と向かってではないところが彼らしい)。
「そういうのは心の淋しい人なのだ。反面教師だと思って、憐れんでやりなさい。」
なぜ、その先生に訴えてくれないかと不満に思ったこともあったが、おかげで私は人を恨むことを教わらなかった。
その手紙は、多分今もどこかにしまってある。


今、父は昔に比べて格段に口うるさく、怒りっぽくなっている。
年老いてゆく自分への苛立ち、かなしみもあるだろう。
しかし、それを包むように、本当は私は何倍も優しくならなければならないのだ。ほんとうは。
ほんとうは・・・。


心配していた孫が帰ってきて、やっと家族が揃って、父は自分の部屋に戻った。
洗い物をしたあとで、トイレの中で、少しだけ涙が出た。
私にのこるものはなんだろう。
いいものがのこる人に、私もなりたい。
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Commented by Take at 2006-02-14 09:57 x
心の中と想い出には、大切な事が一杯ですね(^-^)
Commented by rikakokoro at 2006-02-14 11:05
思い出って、いつでも全部思い出せるわけじゃないとこが、いいんですね。
急にふわーっと、切ないですよねえ。
Commented by くるぶし at 2006-02-14 21:25 x
考えてみれば、
なにがのこるのか、のこったのか、
本人のみぞ知る由もないんですね。
Commented by rikakokoro at 2006-02-14 21:40
ほんとうに・・・。
自分でも思いつきもしない、とんでもないとこが残っちゃったらどうしよう・・・。
by rikakokoro | 2006-02-12 23:05 | ひと | Comments(4)

長井理佳。童話作家で作詞家。仕事歴は以下のプロフィールのページにあります。


by RIkaNagai
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