うちの庭を囲む垣根は『混ぜ垣』。6種類くらいの木でできている。
とある庭師の方に提案していただくまで、そういうこともできるのだと考えもしなかった。
いろいろまざっている、というのは、なんとなくほっとする。
いや、むしろまざっていてほしい。
勝手に生えて来る雑草といわれるちび草たちも、まざっている様子がかわいくて抜けずにいるうちに、ちびではなくなり、困ってしまったりもするのだが。
「まざっているのがすき」というのは、考えてみると、自分の性格にも当てはまるような気がこの頃している
長いこと、というかつい最近まで、自分が何かにとことん夢中になれないことがコンプレックスだった。
どうも、途中で気が散ってしまうのだ。
職業にしてもそうだ。
書く仕事は好きでやっているけど、がむしゃらになれない。好きなことはいろいろあるけど、究めるとかとことんやるとか、そういう言葉になじめない。
そんな自分が、だめなんじゃないかと長いこと思って過ごしてきた。
いったいどこで身につけたものだか、そういう小心さも自分の性格なのだ。
その手の後ろ向きにハマると、毎日がモヤモヤする。
いやいや、書くことが本職なのだと思い込もうとしてみたり、他に何ができるんだろうと焦ったり、もっと必死に挑戦すべきなんじゃないかと思ったり、つまり自分の外側にある何かしらのモデルに自分を当てはめようとして、いっそうモヤモヤした。モヤモヤ人生の長かった自分であった。
そういうの、もうやめようっと!と思ったのは、つい昨年あたりだったような気もする(おそい)。
50代も後半にさしかかり、親を看取ったり、老いることの現実を実感したりしているうちに、人生ってそんなに長くないんだ、ということに気づいたからか(おそい)。
いったい、何のための人生? という自分への問に、即答できたのはまだ幸いだったかもしれない。
日々の生活。山ほどある心配や不安。アリとキリギリスにたとえると確実にキリギリスタイプでありながら、時々自分のキリギリスぶりが怖くなって泣きそうになる。
そんな自分を脇において、とにかく今生きていて、好きに動けて、小規模であってもそれなりに楽しむことはできるしあわせを選びたいと思った。
気が散りやすくていいんじゃない? それが運を呼ぶこともある。
頭で考えてもどうせうまくいかないなら、いろんなものが生えてくる庭のように、風まかせ、鳥の落し物まかせ、季節まかせ、人まかせ、猫まかせ、お天気まかせ?……。
そういう心境になったら、首を突っこんだりまきこまれたりで、なんだか逆に忙しくなってしまったのには、ちょっとびっくりした。
出会う人の数もやたら増えて、バラエティに富んでいて、しかも私のまわりにはおもしろくて良い人ばかりだ。
なんてしあわせなことだろうか。
混ぜ垣人生。
いろいろ生えてる人生をこれからも楽しみたい。
……なんて呑気なことを言ってるとあっという間に緑にのみこまれてしまうから、油断できない。
庭しごとだけは、素人なりに真剣勝負かも…。